立ち読み

『山と雲と蕃人と』本文からの抜粋

 密林を伐り開いた斑点は耕作地であろう。山肌の赭く剥げた斜面に認められる条痕は、狩猟路であろう。そして青い煙の立ち昇る谷間の一角は蕃社であろう。これらはいずれもラホアレ一味と、郡大社の脱出蕃の、この広大な天地に生を営む象徴である。我が官憲の処置を潔しとせずして、この奥山に立て籠った彼らは、見方によっては、痛快なる風雲児である。どうせ短い人の一生かもしれない。朝に鹿を追い、夕に羚羊を尋ねて過ごす、彼らの自由な生活は、もし機会到って殲滅させられるときがくるとも、人里近く誘きだされて、文明の害毒にあえぐより、遙かに優ったものかもしれない。(五九ページ)

 我々は仕方なく草地の上に腰を下ろして、マキリを待った。大きな自然の下においては、鹿も人間も共に憐むべき小さな存在でしかないはずなのに、それが生存のためとはいえ争い合うことを思うと、何だか不思議なことのようにさえ思われた。森の中を心を脅えさせながら逃げまどう鹿と、それを追うマキリの獰猛な姿が目に浮かんだ。今しがた雲の中にボンヤリ立っていた鹿の姿は、いたわってやりたい詩人のように思われた。本能的に獲物の銃獲を念じた僕は、また逃がしてやりたいとも思うのであった。(八七ページ)

 僕はいつしか、海を渡ってはるばるこの山奥に訪ねてくる自分のことを考えていた。そしてその情熱を客観していた。雄大な山波と原始の森と素朴な蕃人、好奇と冒険と多彩な風物の織りなす台湾の山岳は、今では僕にとって離すことのできない存在に思えた。僕は毎年それらのものが毀れない限りは、万難を排してこれに吸い寄せられることであろう。かくまでに結ばれた因縁の動機を、僕は心の中であれこれと考えてみるのであった。(八八ページ)

 新高を訪れる歓びの前に、一抹の憂愁がハタと僕の心を掠める。以前はこうではなかったが! この道を通るのは五年振りである。しかし沿道の風景は明らかに荒廃した。それは過去の思い出を美しくする旅行者にありがちな感情によるのでは断じてない。台車一本の敷設はかくも自然の美観を破壊するものか? 台車を通ずること、それは単に幅一間の坦路を山腹に刻むことでない。例を挙げて記憶を辿れば、雲懸橋の袂に涼風に翠葉をそよがせていたタイワンフウの蔭涼しい立木は跡方もなく伐り払われた。楠仔脚萬手前の原始的な緑林は影を消して風景を破壊する茅葺きの粗末な小屋の幾棟かがこれに置き換えられた。そのほか新高の沿道を潤色する多くの木立は、いつしか薪に代えられて空漠とした茅原が、我がもの顔に生い茂っている。新高山の自然とその保存。それは山頂近くの地域をのみ保護することでない。山麓より山頂へ、心ある山岳観賞者は、その山岳を総合的な審美眼をもって味得する。あるいは日本一と称し、あるいは国立公園の候補地と叫んで、新高山を宣伝する計画が何だ! 僕の六年前に見た自然の思い出を手繰れば、それは以前に比して遙かに損なわれたものである。しかしますます荒れ尽さんとするこの現状を見て、僕は義憤の唇を噛まないわけにいかない。台車は秋田木材会社が、沙浬仙渓の森林伐採を企業し、かつ新高登山者を当て込んで敷設したものだそうであるが、伐ってくれといわんばかりのカナダの森林などとは異なり、急峻で雑木の多いこの谷からは木材は思うように出ず、登山者はあまりなく、今では三割引の山の警官専用といったようなわけ、加うるに沿道の崩壊常なる粘板岩の地質構成は、一雨ごとに土砂を押し流して、台車線をアメのように曲げてしまう。先も実見した内茅埔、筆石間の山崩れのごときも、容易には復旧できないであろう。秋木のごときも初めは充分の予算をもってかかったのであろう。しかしこの有様はどうだ。新高の自然は実用的にはできておらない。自然を破壊しかつ何の利益もない。新高の自然はあくまで峻烈である。自然を蔑 ろにするものは罰せられる。これを見て僕にはかなりに痛快である。しかし省みて僕の胸は再び払いきれない憂愁に閉ざされる。破壊されてまたと還らぬ自然をいかにしよう!(九七ページ)

 風表を除けて谷間に下りたせいか、風当たりは弱くなって、やがていつともなく静まった。柔い触感をもってソッとかき抱くようなベニヒとニイタカゴヨウの麗しい針葉。森の木下道は人の心を優しくする。梢を通して漏れてくる雨滴の音に聞き入り、無邪気な小鳥の声に耳澄まし、果ては森を離れた白雲の動きに見とれては、僕の心はまもなく全き平静の故郷へと還る。あの風を憎むまい。この雨を怨むまい、人は自然の与えるものを素直に受け入れて最善を尽してさえいれば良いのだ。森を静かに濡らしていく雨が僕の魂へも滲み透る。悔いのない気分が僕を澄みきった水のように支配する。
 蕃人がとても神寂びた蕃歌を歌う。それが森の中に不可思議な反響をもって寵もる。この原始な人間の唇から漏れる韻律は、この場合西欧のいかなる偉大な作曲家の創造にもまして、僕の魂に徹する。新高裏の太古ながらの森林、我々と遙かな時代を隔てるこの古代人。この二者の織りなす幽幻な諧調。僕の血潮に忘れられていたあるものが、時ならず目覚める。台湾の自然の中に我々の求める一つのものは、確かにこの原始ではなかったか? 微笑まずにはいられないような歓びの火が、僕の胸の中に燈される。(一〇三ページ)

 僕は山と原始に憧れ、人里から離別する快さを楽しんでこの奥山へと分け入ったのだった。そして山が僕の前に時々刻々拡げ示す美と崇高に魅せられて、憑かれたような歩みを続けたのだった。しかしわずか三日しか経たないのに、この人工的な道路にいい知れぬ暖かさを感ずる。僕はその中に明らかな矛盾を見、かつそれがどうにもならぬ僕の山への不徹底さ加減を実証するものであることを思うと、僕の一つの心は淋しかった。(一三三ページ)

日本人からは全然手の及ばないこの奥深い山地も、蕃人たちにはちょうど自分の家の庭園か牧場のように気やすく親しまれているのだ。耳をすますと朝の静かな空気の中に獣追う異国的なメロディーはさらに谷を越えて伝ってくる。そしてなおも長い余韻を引いてなかなかに途絶えようとしなかった。ここに自由な狩猟の日がある、ここに我々の楽しい生活があるとあたかも僕の胸に囁きかけでもするように。僕は一瞬間何物をも打ち忘れてこの声音に聴き入っていた。そして今さらのように彼ら蕃人の何ら拘束のない奔放な生活を思うのであった。(一六五ページ)

 尾根が少しく平になり背幅を増して、タカネススキが絨毯のように敷き詰められた草原のうねりを越すと、またしても砕岩の積もる峰筋に出た。マリガナンは尾根の接合点に開けたやや平坦な台地を抜いて、つい目の先に急聳する。マリガナンの登頂もまず確実だ。冷えた岩の上に座って休む。全く原始の曙のような静寂、その中に魂を自由に泳がせて、後ろも前もない夢のような瞬間に、しばし身を委せた。その中に耳をすますと、大地の吐息のような谷底で鳴る風、どこかの茂みで囁くチメドリ。その二つがこの沈黙を裏切る全てだった。はるけくも来つるかな! 僕は何とはなしに目頭を潤ました。ひたひたと風に乗る旅愁。いやそうではない。それは都を永く離れた恋しさではない。山の崇高と原始に固く抱擁された自分を見出す歓びなのだ。目の前に咲き残った、ニイタカシオガマの総状花を綴る一つひとつの花が、皆違った表情をもって僕を優しく見る。このときの休息は楽しかった。醒め難い夢の孕む原始への交感と、それが奏でる玄妙なる無音の音楽。(二三九ページ)

鹿野忠雄と著書『山と雲と蕃人と』について(台湾山地研究家・楊南郡)

 三十三年前、台湾の高山を登り始めた私には、この本は手放せない愛読書であり、登山前や下山して家に戻ってからも、何度も繰り返して文字を追ったものだった。高山の風景をカメラよりも精密に生き生きと描き出し、山道を行く登山者の心境を心に直接訴えるように刻む、その鹿野忠雄の力量には目を見張らせるものがあった。(三九一ページ)

 上官の命令を無視したとして、憲兵によって銃殺されたというのが一般に信じられている真相である。先住民の部落に長期に住み込み研究に没頭していたため、部隊移動の命令を無視したというのが理由である。(四〇七ページ)

鹿野忠雄について(鹿野忠雄と行動をともにした先住民・トタイ・ブテン)

「鹿野先生は今まで会った人のなかで一番いい人だった」
「先生はいつも言ってたよ。動物の生命はかけがえのないものだって。私らは研究のために殺さざるをえない。でも殺す前に注意しなければならない。どの種類の生き物も二匹以内にとどめるようにとね」(四一〇ページ)

「鹿野先生にはまったく尊大ぶったところがなかったな。先生は私ら蕃人といっしょにめしを食い、いっしょに寝た。私らが酒を飲んで歌を唄っているときは、そばで静かに聞いておられた。一つひとつの部落の風俗や習慣をたいへん尊重されていた。大根以外は何でも食ってたな。誰とも分け隔てなく接しておられたけど、日本の警察の官僚的やり方だけは嫌っていた。警察が用意したきれいな宿舎を断ってわざわざ私ら蕃人の家に泊まられたcc」
「鹿野先生はほかの人と比べものにならないぐらい真面目だった。誰も歩いたことのないルートをさがして歩くのが好きだった。それに、ずいぶん大胆で、崖っぷちに行って、写真を撮ったり、地形を観察したり。テントを立てたあとは、みんなには休めと言って、自分は周囲を走り回っておられた。そして、夜はおそくまでテントで記録をしていた。その日得たデータやヒントといったものは必ずその日のうちにメモして、それから横になっておられた。……行程はあんまり計画的ということはなかった。警察に案内してもらうのは大嫌いで、行きたいと思ったところにパッと行くという感じだったな。一番長いときは三カ月も山におって、食糧が無くなるというときになってやっと蕃人に下界へ取りに行かせる。まるで、食い物のことなんか頭にない。着てるものも質素で、寒くなれば高等学校の外套を羽織るだけ……」(四一二ページ)