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リアリティのダンス
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書名

リアリティのダンス

著者
アレハンドロ・ホドロフスキー=著 青木健史=訳   
定価
3,000円+税  
判型・造本
四六変、上製、520頁   
ISBN
978-4-89257-076-6    

カルトの鬼才が綴る魂の自伝。

 

『エル・トポ』『ホーリー・マウンテン』『サンタ・サングレ』の監督アレハンドロ・ホドロフスキーによる自伝、待望の邦訳が登場。

 

いじめ、虐待を受けた少年期、詩へのめざめ、 瑞々しくも激しい恋と友情、数々の芸術実験、オカルト的精神修行、そしてサイコテラピーの道へ。イマジネーションの力によって、ホドロフスキーは、みずからの限界を突破しつづけている……。

 

本書は、日本での公開が待たれるホドロフスキーの映画最新作『リアリティのダンス』の原作でもある。

 

装幀:佐々木暁

 

(2012年10月28日発売)

 

<映画『リアリティのダンス』公開特別寄稿>

「映画人ホドロフスキー」の誕生

青木健史

 2013年、春。ホドロフスキー監督の映画「リアリティのダンス」が完成した。
 これを受けて昨年は5月以降、カンヌを皮切りに各国の映画祭で作品が披露され、そしてついに今夏、日本でも公開の運びとなった。いまはその日が待ち遠しくてしかたがないというところだ。チリとフランスの二重国籍をもつ「カルトムービーの鬼才」、そのマルチぶりはよく知られているとおりだが、ではその多面性の中心「映画人ホドロフスキー」はどのようにして生まれたのか。

パニック運動から映画制作へ
 映画の世界に足を踏み入れた経緯の一端について、ホドロフスキーは、あるインタビューで当時をふり返り、つぎのように語っている。

 「どうして映画の世界に?」だって? まあ、言ったように、わたしはメキシコでたくさんの演劇を上演した。だが、わたしの念願をかなえてくれるのは映画だったんだ。映画はわたしのいろいろな才能をひとつにまとめてくれるものだった。わたしは絵も描けたし、メーキャップに美術、音楽、監督、演劇の脚本……などもやれた。わたしは映画に、すぐれて現代的な芸術を見ていたんだ。わたしの経験の蓄積を導いてくれる芸術をね。それに、演劇の叫びが届くのはせいぜい町のなかにすぎないけど、映画の叫びは世界に広がっていくからね。
(A. Jodorowsky, La Trampa Sagrada, 2007)

 映画人としてのホドロフスキーの原点は、そもそもメキシコとの出会いにまでさかのぼる。祖国チリを捨て、裸一貫パリを新天地として活動していた ホドロフスキーは、1958年、マイム役者マルセル・マルソーの巡業に同行し、はじめてメキシコを訪れる。その後、いったんパリに戻ったのちマルソーと袂を分かったホドロフスキーは、その夢幻的で詩的なオーラに魅了され、ふたたびメキシコに戻って居を構えることにする。1959年のことである。
 この時のホドロフスキーは実質的にはまだ映画監督ではなかった。本来の短編デビュー作 Le Cravate (Paris, 1957) のことをおぼえている者はいなかったし、メキシコの映画界にとってはまったく無名の部外者であった。しかしこのゼロからの出立ほど、彼の本領発揮にふさわしい局面があるだろうか。メキシコの演劇に「前衛」をもたらしたのはホドロフスキーだといえるだろうが、同様のことを彼は、今度はメキシコ映画の世界でもやってのけることになる。ご存知の「メキシコ3部作」、すなわち「ファンドとリス」(67年)、「エル・トポ」(70年)、「ホーリーマウンテン」(73年)である。
 ホドロフスキーがその活動拠点をフランスからメキシコに移していく時期は、おおざっぱにいえば、パニック運動から映画制作へとその活動内容の重心を移してゆく時期に重なっている。パニック運動の原点は、オフィシャルには、ホドロフスキー、アラバル、トポールをはじめとするメンバーが決起集会を催した1962年だとされる(ただ、広義のパニック的な活動は、のちの「サイコマジック」の処方行為を思わせるような数々の「束の間のパニック」まで含めて、59年には開始されていたとする見方もある)。似たような社会的疎外感――パリに住むチリ人(ホドロフスキー)、スペイン人 (アラバル)、ユダヤ系ポーランド人移民の息子(トポール)――などをきっかけに意気投合した三人が、アンドレ・ブルトンに――とりわけ、当時の 性解放運動やロック音楽などに対するブルトンの姿勢に――失望して独自に創設したのがこの運動なのであった。
 59年にメキシコに舞い戻ったあと、しばらくのあいだ両国間を行き来するうちに、やがて65年、ホドロフスキーはいよいよメキシコでの活動に本腰を入れることになる。この年は、パニック演劇を一時的に休止することを決めた年にあたる。有名な、上演時間が2時間をこえるパニック演劇「ハプ ニング・メロドラマ・サクラメンタル」をアラバルやトポールとともにパリで開催したあと、どうやら全精力を消尽し、相当の脱力感に襲われたらし い。
 メキシコ時代はホドロフスキーにとって、じつに多産な時期であったといえるだろう。多数の前衛演劇を上演し、コミックの脚本家としてデビューを果たし(Anibal 5, 1966)、演劇理論に関する著作(Teatro Pánico, 1965、ほか)を発表するかたわら、ホドロフスキーは、のちのサイコテラピーの開発を下ごしらえするように、みずからの意識レベルの拡張に励んでもいる。たとえば日本人禅僧の高田慧穣や、英国出身のシュルレアリスト画家であるレオノーラ・キャリントンをはじめとする、さまざまな人々との交流をとおして、数々のスピリチュアルな修業体験を重ねていくのだが、このあたりの事情については、彼の自伝的著作『リアリティのダンス』(文遊社、 2012年)で詳しく回想されている。
 パニック運動から映画制作へ。この移行期はホドロフスキーにとって、のちの彼の人生を大きく変える転回点であった。それは活動拠点の移動であり、意識の新次元への出立であり、多様な才能を総合するチャンスであった。そしてもちろん、時間と場所に縛られた「演劇の叫び」から、時間と場所を超えて響き渡る「映画の叫び」へのイニシエーションでもあった。

60年代のメキシコ映画界
 ホドロフスキーは、ここでもやってくれた。
 会ったこともないアンドレ・ブルトンを電話口に呼びだして、だしぬけに不躾な面会を取りつけようとしたり、またブルトンの自宅を訪問した時には、図らずも師の排便シーンを目撃したりするなど、ホドロフスキーの型破りなエピソードは、あげればきりがないほどである。もちろん、巻きこまれ たのはシュルレアリスムの老師だけではない。メキシコで映画人デビューを果たそうとして躍起になっていた頃、当時のメキシコ映画界の重鎮ルイス・ ブニュエルとのあいだにも破天荒なエピソードを残している。当時をふり返り、ホドロフスキーはつぎのように語っている。

 ある日、ブニュエルへのオマージュとして組合が主催したカクテルパーティーにでかけた。みんながそこで、腰をおろし、連中の神さまにお目通りがかなってたいそうご満悦だった。わたしがすぐにブニュエルに対してなれなれしい口調で話しかけると、彼も同じ態度で応じた。これには、ほかの連中は腰を抜かした。そのあと気がついたのだが、ブニュエルのズボンについている楕円形のポケットが、女性器のかたちにそっくりときた。ひとが映画の話をしているあいだ、わたしはこいつで遊んでいた。ブニュエルのヴァギナのごときポケットに、伸ばした手を突っこみ、ピストン運動をさせてね。いかにも犯しているぞという感じで。そんな無礼なわたしを見て、ほかの連中は怒り狂っていたよ! そこでわたしは、こう言って連中に挑戦状をたたきつけてやった。「あなたがたは臆病者ですよ、インポの頭でっかちだ。行動もしないで映画の話をしているだけじゃないですか。どれだけのことができるか、ぼくが証明してみせますよ。好きな時に映画を作ってやる、組合だの警察だの世間だの、そんなもの気にしていられるか、気が向いた時に作るだけですよ。あなたがたのことなんか無視だ。いや、もう、来月にでも始めてやる!」
(A. Jodorowsky, La Trampa Sagrada, 2007)

 59年にメキシコに居を構えて以降、ホドロフスキーは、かの地の映画界の情勢を虎視眈々とうかがっていた。問題は、メキシコ映画界にとって彼は 当初――当然といえば当然だが――まったく取るに足りぬ人物であったこと、そして、かなり保守的な「映画監督組合」(sindicato de directores)なるものが幅を利かせていたこと。けだし、60年代のメキシコの映画界、あるいは社会には、ホドロフスキーが望むようなラディカルで破壊的な前衛映画を受け入れる土壌はなかったのである。
 当時のメキシコ映画界を支配していたのは、エミリオ・フェルナンデスに、ルイス・ブニュエルという、二人の映画監督の存在である。前者は、メロドラマと民俗趣味が支配する当時のメキシコ映画とともに衰退の途上にあり、なるほど、その全盛期――María Candelaria (1943)、「真珠」(La Perla, 1945)――をとうに越えてはいたものの、それでもまだ旺盛に制作を続けていた。また、50-60年代に精力的な活動をみせたブニュエルの存在感もまた然りである。ホドロフスキーと同時にメキシコにいた時期に完成させた、純然たるメキシコ映画は、たしかに「皆殺しの天使」(El ángel exterminador, 1962)だけかもしれないが、それでもその影響力は、彼の後継者たちの活躍なども含めて、当時のメキシコ映画界になお色濃く残っていた。
 ホドロフスキーのいう「組合」の核心には、少なからず、この二人のカリスマへの――とりわけブニュエルに対する――リスペクトがあったと思われるが、その運営上の約束事が実際にどのようなものであったのかは、さしあたり判然としない。ただ、「ファンドとリス」の制作経緯に関するホドロフスキーの説明によれば、映画を撮影するためには、まず、「組合」の許可を得る必要があったようだ。まるであらたなローマ法王だとでもいわんばかりにブニュエルにまといつく組合メンバーたちを、ホドロフスキーは足しげく訪ねてまわった。

「映画人ホドロフスキー」の誕生
 67年7月。酷暑のなか、いよいよ「ファンドとリス」の撮影が始まった。ロケ地はおもにメキシコシティの郊外である。面倒なルールは多そうだし、監督組合のメンバーでもない……。ホドロフスキーがこの際とりそうな行動は、およそ察しがつく。彼はほとんどの場合、撮影の許可も得ず、組合 に隠れてこっそりと、撮影の認められていない場所で、撮影を敢行したのである。彼は作品を4つの部分に分割し、4本の短編映画にみせかけた。長編として取り扱われることを避けるための「脱法行為」であるが、この策略をホドロフスキーは、のちの 「エル・トポ」(El Topo, 70)の制作時にも繰り返している(ということは、たぶん、短編のほうが規制が緩かったのだろう)。
 撮影の現場では数々のタブーに抵触した。泥まみれのゾンビたちのシーンでは政府のスパイに発見され、全裸の男女の撮影を禁じられた。また、よみ がえった死者のシーンでは、裸の女たちや本番の性交を撮影しようとして禁じられた。さらに、役者に演技させるかわりに、町のたまり場からリアルの 「ドラッグ・クイーン」(女装のホモ)を連れてきてありのままの姿をフィルムに収め、撮影スタッフやのちの鑑賞者の度肝を抜いた。山あいの小村の墓地のシーンでは、墓碑のうえで役者に演じさせたり、そこらじゅうの十字架という十字架を動かしてごちゃまぜにしたりした。こうした掟破りの行状 は、当時のホドロフスキーにとってどんな意味があったのか。2点ほどあげておこう。
 (1)まず上に述べられたことの再確認として、この時期のホドロフスキーは、「パニック的なもの」(lo pánico)を共通因子として演劇から映画へと移行する途上にあったということ。アラバルの作品を原作とする「ファンドとリス」は、パニック的な舞台を パニック的な映画に移植したものといってよい。実際、ホドロフスキーは映画制作のまえに、まず舞台で同作の上演を何度もくり返している(役者を違 えて2つのヴァージョンがある)。「パニック的なもの」への関心は、表現形態や制作現場を映画の世界に移したのちも、断固として一貫している。
 (2)「パニック的なもの」のねらいは、ことばに縛られたこころを解放するところにあるということ。こころの解放は、硬直した社会通念あるいは 世界観に揺さぶりをかけることにより、制度化した「リアリティ」のフィクション性を暴露することをとおして成就される。「組合」「警察」「政府」 「世間」「観客」「信仰」などは、そうした制度的リアリティの結晶にほかならず、これこそ攻撃目標のど真ん中なのであった。「組合だの警察だの世間だの、そんなもの気にしていられるか」(ホドロフスキー)。新作映画のタイトルにも謳われているとおり、彼にとって現実とは、「ダンス」のようにしなやかで、流動的なものでなければならない。

 ともあれ、かくして67年12月、クリスマスを目前にして「メキシコ3部作」の第1部が完成した。と同時に「映画人ホドロフスキー」が誕生した。だが、ホドロフスキーのチャレンジは制作終了後も続いていた。「ファンドとリス」は、完成したのち1年の空白を経て、ようやくアカプルコ国際映画祭(68年)で公開されたが、これがまた途方もないスキャンダルを引きおこし、メキシコではのちに公開が禁止された。
 ちなみに、よく知られているとおり、アカプルコ国際映画祭でホドロフスキーを擁護した希有な映画人が、ロマン・ポランスキーである。彼は「ローズマリーの赤ちゃん」(68年)のプロモーションのために参会していた。ただ、このポランスキーによる援護は、どちらかといえば、アーティストの表現の自由を固守することに力点を置いていたようである。

(2014年3月19日)

 

著者詳細

アレハンドロ・ホドロフスキー(Alejandro Jodorowsky)

1929年、ロシア系ユダヤ人としてチリに生まれる。現在の活動拠点はフランス。少年時代より詩作を始め、大学では哲学を専攻後、演劇科に転籍。ハプニングの前史ともいえる街頭パフォーマンスの数々を実践する。53年に渡仏、おもにマルセル・マルソーの劇団で働く。60年代はパリとメキシコシティを往復しながら百近い前衛演劇を上演した。映画監督としての第一作は68年の「ファンドとリス」。70年にニューヨークで深夜上映された二作目の「エル・トポ」が、ミック・ジャガー、ピーター・フォンダ、デニス・ホッパー、アンディ・ウォーホル、オノ・ヨーコなど当時のカウンター・カルチャーを代表する人々の注目を集めたうえ、ジョン・レノンの激賞により、ビートルズの事務所社長アレン・クラインが次作の制作資金100万ドルを提供。これをもとに73年「ホーリー・マウンテン」を発表、カルトムービーの鬼才≠ニして映画史に名を残す。89年の「サンタ・サングレ」も話題を呼んだ。
日本でも寺山修司をはじめファンは多く、近年では大友克洋と個人的交流がある。ホドロフスキーは漫画の原作者としても有名であり、メビウスと共作した『アンカル』など、数十冊のバンドデシネを発表している。小説や詩集ほか、サイコテラピーに関する著作も多い。彼は芸術家であると同時にテラピストであり、日本人禅師に弟子入りして本格的に禅の修行を積んでいるほか、タロットや明晰夢の研究、また各国の呪術医≠竦ク神分析家との交流を通じ、サイコマジック、サイコシャーマニズムなど、独自の心理療法を確立している。
2012年8月、83歳のホドロフスキーは故郷チリで映画「La danza de la realidad」(原作=本書)を撮り終えた。現在、その公開が待たれている。

 

翻訳 青木健史

1967年、山口県生まれ。東京外国語大学卒業、東京大学大学院総合文化研究科博士課程満期退学。慶應義塾大学経済学部非常勤講師。専攻はラテンアメリカ文学。訳書:N・ホーソーン、E・ベルティ『ウェイクフィールド/ウェイクフィールドの妻』柴田元幸・青木健史訳(新潮社、2004年)。

 

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