『飢えと窮乏の日々』(ネール・ドフ著)刊行によせて



プロレタリア文学の巨星による哀切な自伝小説三部作!

書くことで、虐げられた者の一人称「あたし」の尊厳と輝きが、甦る。

娼婦が作家になったことだけが「事件」なのではない。

 

                         工藤庸子(フランス文学)

 

 ……それは「文学の事件」である、というべきかもしれません。時はヨーロッパの世紀末。お針子と呼ばれる働く娘たち、画家のモデル、使用人など、社会の底辺に生きる女性たちにも初等教育がゆきわたる。彼女たちは、暇を盗んで安手の小説に読みふけり、お屋敷の本棚からこっそり引き抜いて、あるいは恋人の男から借りて、知識人向けの書物を開いたりもする。そのうちに、あたしにも言いたいことがある、と考えるようになっても不思議ではありません。労働者階級の底辺に生きる女性たちの手記――今日の用語なら「ニート」の女性たちの証言――は、時代の潮流として存在したはずです。

 それを裏づけるのが、1900年に刊行されてベストセラーになったオクターヴ・ミルボーの『小間使の日記』。ご存じブニュエルの映画の原作ですけれど、ひと言コメントするなら、原作のテクストは、男性知識人が小間使いのふりをして、ちょっといかがわしいことを書くという二重構造が、透けて見えてしまうところがある。でも映画では、男に帰属するのでもない、女の打ち明け話でもない、ただ、淫靡なセクシュアリティが映像としてそこにある。これは圧倒的です。ともあれミルボーは文壇の大御所になりました。そしてゴンクール賞の審査委員として、ネール・ドフの『飢えと窮乏の日々』(1911年)を強力に推した。受賞は逃したけれど、オランダ人の元娼婦が本格的な作家としてパリ・デビューを果たしたのだから、これは前代未聞の快挙でしょう。

 スタール夫人、ジェイン・オースティン、ジョルジュ・サンド、ブロンテ姉妹、ヴァージニア・ウルフ、コレット、デュラス……、例外的な女性作家たちは、いずれの場合も、それなりに知的な環境で成長しています。ところがネール・ドフは、呑兵衛の父親とだらしない母親のほか小さな弟や妹が何人もいて、家にはびた一文なくて、気が遠くなるほどの飢えと寒さに苦しんで、要するにどん底の少女時代を送った女性です。風に運ばれ一枚一枚と舞い降りる、スケッチ画のような断片風のページ構成は、なかなか新鮮で成功しているし、垢と汚物にまみれた悲惨な子供たちの姿には、どこかしら無垢でユーモラスな風情さえ感じられる。絡繰りのない一人称のテクストがもつ爽やかさ、と形容できるかもしれません。

『ケーチェ』(1919年)は飢えた少女が作家になるまでの物語。16歳の少女が街に出て、家族のために嫌悪に耐えて身体を売った。母親は共犯者にして見張り役。父親は素知らぬ顔を決めこんでいる。現代の読者にとっては衝撃的だけれど、19世紀の小説に馴染んだ者なら、こうした最貧家庭のおぞましい情景は、今思うほど例外的ではなかった、深刻な社会問題のある意味では典型的な一幕だったとおわかりになるはずです。ところで小説である以上、ケーチェと名づけられたヒロインは、作者のネール・ドフその人ではない。それは確かだけれど、恐るべき向上心、したたかな生命力を共有していたと思われます。ケーチェは画家のモデルになり、裕福な遊び人の青年をパトロンにして、それなりに安定した生活を送るようになり、さらには別の裕福で知的な社会主義の青年と深い愛情で結ばれる。そしてブリュッセルのコンセルヴァトワールに通い、かじった程度だったフランス語を、発音や文法から古典文学の読解まで、徹底的に学び、鍛えあげたのです。その勉学の姿勢と読書量ときたら!……

 ネール・ドフが小説を書いたのは、50歳を過ぎてからでした。娼婦でもあった女性が、自分の受けた性的な傷を率直に語り、男性の暴力を告発するときに、たしかに毅然とした一人称や回想というスタイルは、ある種の砦にはなるでしょう。ただし、経験の信憑性という主張は、別種の危険も呼び寄せます。男たちの、というよりむしろ、男女を問わず、安全地帯にいるブルジョワ的精神の「覗き見趣味」「ポルノ的なものへの期待」に応えることになってしまうかもしれない、本来は抵抗すべきものに無自覚に迎合してしまうかもしれない、という危険です。

  女性はいかに女性のセクシュアリティを表現するか。これは女性の創造活動や批評活動につきまとう重大な問題でありましょう。「隠蔽か露出か」という文脈で語るのは、戦略的にも賢明ではない、とわたし自身は考えています。たとえばコレットは「赤裸」なのではない。そうではなく、セクシュアリティを女性とパートナーにとっての健全な「快楽」にしてしまった。こともあろうに、高級娼婦をヒロインにして、女性が語るべきではないことを語ってしまったのです。デュラスの文学にも娼婦と倒錯というジョルジュ・バタイユ的なテーマがあるけれど、これに触れるには相当の覚悟と準備が必要だから脇に措くとして、あえて、ひと言で断言してしまうなら、コレットもデュラスも爽快なまでに「違反的」です。つまり、性をめぐるブルジョワ的かつ父権的な禁忌と了解を、あっさり、ぶち壊したという意味で。

 ネール・ドフは、もっと実直です。ひたすら身につまされ、弱者に一体化して本を読む、そんな本好きの娘が『罪と罰』の娼婦ソーニャに我が身をなぞらえて救われたと感じ、ルソーの『告白』を読んで、辛い記憶を語ることにより逆説的な治癒がもたらされるのかもしれないと思い至るのです。いわばゼロ地点の読書経験からネールは出発し、みずからを教育して、社会正義について考える力量を身につけた。なるほどこれは堂々たる「プロレタリア文学」です。

 でも、なぜ母語のオランダ語ではなく、習得した外国語で書いたのでしょう? 知識人の国フランスへのあこがれ? いえむしろ、ネールにとって、それは「解放の経験」だったのではないか。「別の言語」で考えれば「別人」になれる。わたしにも、おぼろげに想像できるような気がします。

  訳文はなめらかだし、周到な「訳者あとがき」は、知られざる女性作家の紹介として画期的なもの。訳者・田中良知さんのネール・ドフへの深い共感が静かに伝わってくる一冊です。